アッシュローズは滝のように脂汗を流しながら、じりと後退した。肉食獣に追いつめられる草食動物になった気分だ。野性の世界に食料を戯れのためだけに追いつめるという習性はないが、その辺はたとえ話にありがちな脚色というやつである。些細なことだ。それよりも目の前にある現実のほうが問題である。
 なぜこんなことになったのか──。
 考えても一向に答えの得られない疑問に翻弄されながらも心を落ち着け、今にも飛びかかってきそうな相棒に制止を求める。
「ま、待て。ちょっと待てGRっ」
 微妙に声が裏返ってしまった。自分が思うより動揺しているらしい。
 アッシュローズは大きく深呼吸をした。腹に力を入れなおす。そして再度声を出した。
「ひとつ訊くぞ? いいな? 冷静に、胸に手を当てて、よくよく考えた上で答えるのだぞ? ……お前、正気か?」
「おう。寝ぼけてもいねーし、めっちゃくちゃマジだぜ」
 満面の笑みを浮かべてぱったぱったと尻尾を振るさまが、とっても空恐ろしい。
 アッシュローズはGRの顔と彼が抱えているモノとを交互に見ながら、さらに一歩あとずさった。
「わ、私は男だぞ」
「知ってる」
「そんなものをつけられて喜ぶ男がいると思うか?」
「いるかもしンねぇじゃん」
 それはまぁ性格が人それぞれなら趣味も人それぞれだろうし中には変わった嗜好を持つ者がいてもおかしくないわけでそういった人を頭から否定するつもりはないけれど──
「少なくとも私にそんな趣味嗜好はない!」
 びしぃ、と指を突きつけ断言する。
 GRが耳をぴんと立てた。
「大丈夫だって。楽しいから」
 アッシュローズは衝動に任せて地面を蹴りつける。
「楽しいのはお前だけだろうがっ!」
「お前も楽しめばいいじゃん」
「楽しめるかっ!」
「心配しなくたってヘマしねーよ。すっげ上手だって何回も褒められてンだぜ? 俺」
 にじり寄るGR。後退するのはアッシュローズ。
「う、うまければいいというものではないっ」
 GRがまた一歩近づく。
「なら、どうだったらいいんだよ」
 後退する。
「どんな条件がつこうがお断りだっ」
「え~? いーじゃん。やらせろ」
 前進。
「嫌だっ」
 大きく後退。
「そんなにしたいのならばメイに頼めっ」
 するとGRが瞬きひとつして、何かを思い出すように空中に目を移した。それから改めてアッシュローズを見て────破顔。
「お前がいい」
 鳥肌が立つ。
「なぜっ?」
「なんでって……お前のほうが綺麗だからに決まってンじゃん」
 眩暈がしてきた。
 アッシュローズはたまらず額を押さえる。
「なーなー、いいだろー? 絶対に似合うからさっ。やらせろよっ」
 GRの目にあるのは、子供特有のまっすぐな期待と好奇心。二十三歳の青年が有しているのは奇跡に近い、そんな無邪気さだ。
 アッシュローズがその目に弱いと知っていて、わざとやっているのだろうか。
 ──GRに限ってそれはない。断言できるからこそ対処に困るのだが。
(どうして私がふざけた趣味につきあってやらねばならんのだ。……けれどここで断ったら悲しむのだろうな。……いやしかし甘やかすのも……だがやはり……でも……)
 思考はすっかり堂々巡り。そんな状態では知恵をひねり出せるわけもなく。
 アッシュローズはため息を落とした。
 完敗だ。
「もういい。好きにしろ」
 するとGRがいっそう表情を輝かせて駆け寄ってきた。背後に回って肩を叩き、座るよう促してくる。
「綺麗にしてやっから楽しみにしてな」
「その台詞は相手が女性のときにだけ言え」
 どっかと腰を下ろすなり、GRが髪に触れた。普段の言葉遣いや態度からは想像もつかないほど丁寧に櫛を通し始める。
 脇に広げられた色とりどりのリボンとレース、造花や石のついた髪留めを横目に、アッシュローズは胸中で嘆息した。
 傲慢な主人とプライドの高い下僕として始まったふたりの関係。最初の頃はそれなりに御せていたはずなのに、いつからだろう、ほとんど勝てなくなってしまったのは。
(どこで間違えてしまったのやら)
 いつぞやにも考えた疑問がまた頭を悩ませるけれど、
「ほんとに綺麗な髪だな……。さらっさらだ」
 毎度毎度のことながら、GRの何気ない言葉がすべて吹き飛ばしてしまう。
 アッシュローズは立てた膝に頬杖をついた。眉を吊り上げる。
 口端がひくついてしまうのは髪を梳かす手がくすぐったいからだ。顔が熱いのは基礎体温の高い男が傍にいるせいだ。そうだ。絶対そうだ。それ以外の理由などない。つまりすべてGRが悪いのだ。決定。
 アッシュローズは背後に肘を打ち込んだ。
「ぐ。……う、痛かったか? 悪ぃ悪ぃ」
 衝撃のおかげで高かったテンションが落ち着いたらしい。GRの呼吸が静かなものに変わった。櫛を動かす手つきも変わる。
「これなら痛くねぇ? 大丈夫か?」
「…………む」
「そっか。よかった」
 アッシュローズはさらに深く、掌に顔をうずめた。
 ──殴るんじゃなかったと後悔したことは、死んでも秘密だ。

END.
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