肩口を狙う剣線。
 切っ先が触れる直前にGR(ジール)は肩から左拳を突き出した。胸を殴ると見せかけて手甲を剣の刀身、その側面に沿わせるように絡めて横に開く。
 剣があらぬ方向に流れた。敵の顔に浮かぶ驚愕と焦慮。
 それらを視界から捨てて口をすぼめ、右足を振る。
「ヒュッ」
 呼気が音を立てた。と同時に、足の甲が相手の頬にヒット。蹴りをまともに受けた男が柄を手放して吹っ飛んだ。見るからに高そうな彫刻を巻き込んで倒れ、動かなくなる。
 が、呑気に見てる暇などない。すぐさま蹴り足を軸足に切り替え、背後で棒を振り上げる男に後ろ回し蹴りを食らわす。
 その勢いを利用して右へ。着地と同時にかがみながら別の男の腹に肘を。さらに隣の足を払い、転ばせ、腰から地面に落とした。撃破した包囲網から走り出る。
 しかし場所は敵の屋敷内部。侵入者を見逃すわけがない。そこに金銭が関わってくればなおさらだ。
「いたぞ、あそこだっ!」
 新たに現れた警護役の傭兵たちが前方をふさぐのを見て、GRはこめかみを引きつらせた。
 暑さに加え、予想外の事態に放り込まれたおかげで苛立っているところに、これで通算五回目の進路妨害である。これが彼らの仕事なのだとわかっていても腹が立つ。
「だぁぁもうっ!」
 拳を固め、スピードを上げた。
 苛烈に踏み切る。
「怪我したくねぇ奴ァどけっ!」
 手前の男の脇腹にすれ違いざま拳を叩き込み、反転。倒れる体を踏み台にして宙に跳ぶ。斬りかかってきたふたりめの背後に空中で一回転して回りこみ、背骨を狙って蹴りを入れた。
「がっ!」
 敵の悲鳴。
 そのまま踏み切り、一団の後ろに抜ける。
 敵は残っていたが、いちいち相手をするのも疲れるし面倒だ。何より今は先を急ぎたい。GRはすぐ彼らに背中を向けた──瞬間、腰から背筋に向けて寒気が走り抜けた。無数のムカデが背中を這いずり回るような、たまらない不快感。
 GRは鳥肌を立てた。歯を食いしばってブレーキをかける。と同時に回転。軸足の踵を上げ、腰を前に投げ出すように入れて左足を振るう。うなりを上げて弧を描く、リーチの長い回し蹴り。鉤爪と化したつま先が、尻尾を掴んだ男の肩を穿つ。
「うあぁぁぁっ!」
 砕かれた肩を押さえて膝をついた男に、さらに回し蹴りを叩きつける。
「触ンじゃねーよ、気色悪ぃっ」
 男が血を吐いて昏倒した。
 今の攻撃でGRが手加減して戦っていたことがわかったのだろう。傭兵たちの目から戦闘意欲が消えていった。武器を手放した者もいる。
 GRは彼らを見やると、何も言わずに服を翻して駆け出した。ついでに鳥肌が浮かんだ腕をさする。
(あーもー気持ち悪ぃ。でもおかげで涼しくなったかも……て、うあ、もう暑くなってきたしーっ!)
 うめいて、手近にあった調度品に八つ当たり。拳を受けた上等の壷は見事に粉々だ。
 本当に暑い。気温の高さにプラスして、この無風状態。おかげで体感温度が尋常でない。暑さに弱いGRにはかなりつらい状況だ。冷静さが真夏の氷のように端から溶けて消え、苛立ちがこぼれていく。
(なーんで俺がこんなめにあわなきゃなンねーんだよ、くっそぉぉぉ……)
 屋敷の奥に向かって全力で走りながらGRは、心中でおもいきり地団駄を踏んだ。
「あ・の・馬・鹿、どこ行った────ッ !!」
 無駄に広い屋敷の一角のこれまた無駄に華美な廊下に、GRの雄叫びがこだましたのだった。
 一見すると純白。けれど手に取れば、つややかな月光色の髪。普段、人目にさらさない瞳は、霧に包まれた薔薇の色。陶器のような白い肌はどこまでもなめらか。そこに在り、柔らかく微笑むだけで、世界が美しく染まって見える──。そんな、光の化身かと思わずにはいられない美貌の持ち主である相棒は同時に、どうしようもない性格の持ち主でもあった。
 異常事態に気づいた彼に手伝いを頼まれ、引き受けたところまでは問題ない。
 彼の魔法でこの屋敷まで一緒に転移してきたこともまた右に同じ。
 だが、いきなり屋敷中の目をひきつけておけと言われ、心の準備もできていないのに魔法で爆発を起こしておいて、自分は警備の者が現れる前にさっさと姿を消すとは、これいかに。
 相棒は逃げたわけではない。捕らえられた者を救うために暗躍しているのは間違いないはず。わかるが──。
 自分を使うことに対して文句など言わない。けれどせめて説明してからにしてほしい。そう思う自分は間違っているのだろうか? 否。正しいに決まっている。これこそが正論だ。だいいち、GRは彼の護衛役である。どこにいるかもわからないのでは護れないではないか。
 彼はこの命を預けた盟友だ。言葉にするのは恥ずかしいけれど、同じ道を、未来を、ともに目指そうと決めた相手だ。彼の願いは自分の願いでもある。だからこそ護ってやりたい。傷つける存在は許せないし許さない。
 心からそう思っているのに。
(なーんであいつはこうも俺の意志無視してひとりで突っ走りやがンだっ。こんちくしょうっ!)
 腹立ち紛れに、かどから飛び出してきた傭兵に飛び蹴りを食らわせようと地を蹴る。
 次の瞬間、突如周囲の景色がぶれた。
「っ?」
 空中にいるGRに対処するすべはない。
 いや、対処も何もない。目を白黒させているうちに景色は完全に別のものへと変わっていた。狙いを定めた傭兵の姿がどこにもない。
「なっ、なんだっ?」
 慌てて体勢を整えたおかげでぎりぎり着地に成功すると、大きな音を立てている心臓をゆっくりとした呼吸で落ち着かせながら辺りを見渡してみた。
 大理石でできた広い広い円形の部屋。高い天井。大きな窓から降り注ぐ光。壁を飾る絵画に彫刻、さまざまな花を生けた花瓶に、観葉植物。それらの中に、雰囲気を損なわないよう絶妙の配置で置かれたソファー。──どうやらサロンのようだ。貴族の屋敷なのだから、このようなものがあってもおかしくはない。
 それにしても、これまでの暑さが嘘のように涼しい。なぜだろう。
「いったい──……あっ!」
 首をかしげながらなおも周囲を見ていたGRは、不意に視線が捉えた人影を認識して声を上げた。
 間近すぎてわからなかった。ほんの数歩先に純白の服をまとった白い人影がたたずんでいる。さすがにこの暑さはこたえるのだろう、足首まで届く髪をめずらしく硬く編んでうなじをさらしている男は、それでも相変わらず鼻の頭にかかるほどうっとうしい前髪の奥に表情を隠したままこちらを見ていた。そして、
「無事で何より」
 ひとこと。
 と同時に、GRは今の異変の原因を悟った。眉を跳ね上げ、拳を握る。
「アッシュ! てっめぇ……転移させるならさせるで、先に声をかけるとか合図を送るとかしろよっ。びっくりしたじゃねぇかっ!」
 だむっ、と一歩踏み込んで怒鳴ると、アッシュことアッシュローズは頬をかけらも動かさないまま静かな声を発した。
「今は風系魔法が制御しにくい状況下にあるから伝達手段はないと、ここに来る前に話したであろう。忘れたのか?」
 言われてみれば、確かにそんな会話をしたような気がする。
 GRは口をねじまげて閉じた。
 感情に任せて怒鳴るのは簡単だが、往生際の悪いことをするのはごめんだ。拳を解き、姿勢を正す。
「悪ぃ。そうだったな。…………。……? って、待て。そもそもお前が説明もしねぇで俺を置いてったのが問題なんだろーがっ。どーゆーつもりだ!」
「うむ。おとり役、お疲れ様」
「お疲れ様。じゃねーよ馬鹿っ!」
「お前のおかげで捕らえられた風の精霊を見つけることができた」
「ったりめーだ! この俺様を利用したくせして見つけられませんでしたーなんて言いやがったら……って、え? もう全部終わったんじゃねーの?」
「………………」
 アッシュローズが静かにひとつの方向を指差した。
 示す先を追い、首を動かす。
 白い人差し指はまっすぐに部屋の中央を指していた。その先には高い天井から吊るされた鳥籠がひとつ。もちろんただの鳥籠ではないだろう。少なくともガラスでできた鳥籠など見たことがない。そしてそれがただのガラスであるとも思えなかった。
 そんな籠の中に、GRの掌ほどの大きさの生き物がいる。
 姿は人間の女性に似ていた。けれど、身長も、強風が吹いているわけでもないのに空中に舞い上がったまま揺らめいている長い髪も、その髪がまとう新緑の色も、どれも人にはありえないものばかりである。
 自然力の具現体、精霊にほかならない。
 精霊は顔を両手で覆い、か細い肩を震わせていた。泣いているのだろうか。それは怒りか、哀しみか、恐怖ゆえか。──どれにしても、むごすぎる。
 GRは眉間に力を入れると、アッシュローズを振り返った。
「さっさと助けてやれよ。何やってンだっ」
「………………」
「アッシュっ。……くそ」
 どんな理由があるのか知らないが、アッシュローズに動く気配はない。となれば自分がやらなければ。陥れられている者を放置し、見て見ぬふりをするなど、獣人族の次期国王としてのプライドが許さない。
 GRはアッシュローズから顔を背けると、力強く一歩前に踏み出した。
 が、
「待て」
「ぎゃっ」
 おもいきり尻尾をひっぱられた。静止を余儀なくされる。
 振り返って見てみれば、アッシュローズが尾の中ほどを鷲掴みにしていた。振りほどこうとしてみるも、先のほうがぴょこぴょこ動くだけでびくともしない。
「お・ま・え・なぁ~っ」
 なおも尻尾を上下左右に振りながら口を尖らせる。
「おいこら離せよ、何しやがるっ」
「仕方あるまい、どうせ口で言うだけでは止まらんのだから。……足許をよく見たまえ」
「足許ぉ?」
 不承不承、見下ろしてみる。
 すると、靴ひとつぶん先で何か白いものが動いていた。霧のような、もやのような、薄い筋。それが形を変え場所を変え渦巻いている。
 そう、まさに渦を巻いているのだ。ちょうど鳥籠の真下を中心にして。
「な、なんだこりゃ?」
「風の結界だ。あの精霊が張ったのだよ」
「じゃあ近づけねぇのか」
「壁ではないから近づくことはできる。だが、なんらかの攻撃を受けることは間違いあるまい」
 GRの驚きに簡潔な答えを返すと、アッシュローズが尻尾を握る手を緩めた。鳥籠へと視線を転じる。
「……GR」
「あん?」
「結界がなければ……お前、あれを下ろすことができるか?」
 問われ、彼に倣って天井を見上げる。
 鳥籠はドーム型の天井の中心から吊るされていた。高さは優に身長の四倍はある。直接そこまで届いている足場はない。しかしGRの跳躍力ならば、横のシャンデリアから鳥籠を吊るしている台座まで飛び移ることも可能だろう。
 とはいえ、見るかぎりシャンデリアと台座の間はけっこうな距離がある。届くか否かはかなりきわどい長さだ。が、やってやれないことはないはず。否。やらなければならないなら絶対にやり遂げてみせる。
 GRは目をアッシュローズに戻してうなずいた。
「とーぜんっ。楽勝だぜ」
「そうか」
 アッシュローズはわずかに微笑むと、籠の中で顔を覆う精霊を凛と見据えた。
 尻尾を手放し、両手を祈りの形に組む。
 それは覚悟を決めた聖者の姿に似て──
 不安がよぎる。
「お前、何する気だ」
 沈黙は一瞬。
 アッシュローズが静かに歩を進めはじめた。
「精霊を説得し、結界を解いてもらう」
 すれ違い、そして結界の手前で足を止める。
「解けたら鳥籠を下ろしてやってくれたまえ。それまではここから動くな。いいな」
 それは指揮官であり指導者であり、支配者のものでもある声音だった。
 ただの声だ。魔法を唱えたわけではない。しかし、アッシュローズが内に秘めている圧倒的な力をまざまざと見せつけられたかのようだ。畏怖が腹の底を冷やす。
 が、ここでひいてはなんにもならない。相棒だと言えない。
 ひるむ心を叱咤して、GRは白い背中を睨みつけた。
「風魔法がうまく使えなくたって、ほかにも方法があンだろ? だったら別に俺がやらなくたっていいじゃねぇか」
「いや。……」
 かすかな躊躇を見せたあと、アッシュローズはため息混じりに言葉を吐露した。
「終わったら私はかなり消耗している。おそらく、魔法のひとつも使えない状態になる」
「…………はっ?」
 今、何か予想を大きく上回る事実を聞かされた気がするのだが。
 GRはなんとか言われた内容を把握しようと首をひねる。だがしかし、脳がアッシュローズの言葉を飲み込むのを待たず、更なる事実が襲いかかってきた。
「私は、天使ではない。だから同じ歌でも天界で奏でられている歌には劣ってしまう。説得を成功させられる確率は低いだろう。精神的な部分だけでなく、肉体的にも無事でいられる保障がない。そういうわけだから、あとのことはすべてお前に任せる」
「──……ちょ、ちょっと待てどーゆーこったそれはっ。ちゃんと説明しろ!」
 こちらを向かないアッシュローズを振り返らせようと腕を伸ばす。
 だが指先にかかったのは薄絹の感触だけ。
 足許で渦巻いていたもやが爆発し、結界に入ったアッシュローズを飲み込んだ。
「アッシュ!」
 とっさに動いた足が一歩前に出た瞬間、
「来るな!」
 怒声で硬直する。
 逆巻く強風の中、アッシュローズが振り返った。あらわとなった目が優しい微笑みの形に細められる。
「声は彼女の領域であるここからしか届かない。そしてこれは私にしかできないこと。任せてくれたまえ」
 翻る服もそのままに、中空の鳥籠、その中に捕らわれている精霊に向き直った。組んでいた手をほどき、大きく息を吸う。
 そして。
 アッシュローズが紡ぎはじめたのは、音。詞はないが、それは確かに歌だった。
 荒れる風の音に負けず、しかし打ち消したりもしない。まるで無造作に音を発するだけの風とハーモニーを奏でようとしているかのようだ。いや、もしかしたら、まさにそのとおりのことをしようとしているのか──。
 たおやかな仕草で差しのべられる白い腕。向かう先は、はるか上空の捕らわれた精霊。
 ガラスの籠の中、精霊が手を下ろした。宝石(エメラルド)を思わせる瞳が、眼下にたたずむアッシュローズを捉える。
 柔らかな歌声でささやくアッシュローズ。
 ふ、と精霊の表情が強張った。唇がゆがみ、そして絶叫の形に開く。
 ──ゴォァアァァッ!
 何度も首を振り、顔を背ける精霊の動きにあわせて、強風が嵐と化して荒れ狂う。
 歌がかき消される。
 アッシュローズがとっさに己の体をかばった刹那、狂った風が空間に白い筋を刻んで走った。
「く、っ」
 白い身体から赤が飛び散る。
 風が染まる──染まっていく。視界が、流血の赤に。
 アッシュローズが崩れ落ちて膝をついた。が、それでもなお天を見上げて歌を紡いでいる。心を閉ざした精霊が受け止めてくれることを信じて。
「────……」
 GRは、動けない。
 先ほどまで苛立つほど暑かったというのに、今は驚くほど寒い。
(…………なんで……?)
 息苦しく。
(なんで、俺はここにいる?)
 足が震え。
(俺はなんのためにここにいる?)
 視界が奇妙に暗い。
(俺のやるべきことってのァ、なんだっ?)
 頬にかかった生暖かい液体。
 それが急速に冷え。けれど代わりに、いつのまにか恐怖という言葉にすり替わっていた心に熱をともす。
(俺は、あいつを護るためにいるんだ。なのに……なんであいつが傷ついてるっ?)
 唱えられない魔法などない──実際問題、不可能などないだろう絶対的な力を持つ魔法使い。頭もよく、常に冷静に状況を見極めることのできる目を持つ策士。けれどその心はひどく脆く、壊れやすい。素直じゃない上に、苦しみも悲しみもすべて自分ひとりで抱え込もうとする馬鹿だ、アッシュローズは。
 そんな側面と彼が抱えた理由(ワケ)を知ってしまったとき、GRは決めた。
 彼を支えようと。襲いくるさまざまな痛みから護ってやろうと。
 なのに今、自分は安全なところにいて彼だけが傷ついている。これではなんのために自分がいるのかわからないではないか。アッシュローズの傍に在る意味がなくなってしまうではないか!
 結論にたどり着いたGRを阻むものは何もなかった。躊躇せず血を混ぜた嵐の中に飛び込み、頭上を睨み上げる。
(これ以上傷つけさせっかよっ!)
 精霊と目が合った。
 GRの怒りを見て取ったか、精霊が眼差しに怯えを宿す。そして彼女が口を開いた途端、アッシュローズを集中して狙っていた風刃がふたつに分かれ、GRに襲いかかってきた。
「痛……っ」
「GRっ」
 前を見ると、深刻な傷はないものの無数の怪我を負ったアッシュローズが振り返っていた。美麗な顔に苛立ちを浮かべ、声を上げる。
「馬鹿者! なぜ動いたっ。戻れ! 結界から出ろっ!」
「冗談じゃねぇっ! 誰が逃げるかっ!」
 GRは即怒鳴り返して、吹き飛ばされそうな強風の中を歩き出した。
 痛みと風がうるさい。耳鳴りさえする。向かう先では、アッシュローズがまだ怒っている。けれどもうどうでもいい。知ったことか。
 自分は彼を護りたいのだ。
 アッシュローズの元にたどり着くとGRは、へたり込んでいる彼に覆いかぶさった。一回り小さな体を胸に抱きこむ。
「じ、GRっ! 何を考えているっ、離せっ!」
「るせぇっ!」
 強く強く抱きしめ、風から遠ざける。
「弱ェくせに無理してンじゃねーよっ。お前はおとなしく俺を盾にしてりゃあいいんだ、馬鹿っ」
「な……っ?」
 腕力では到底GRに叶わない。拘束から抜け出すなど、アッシュローズには不可能だ。それでも腕の中でもがいて体勢を変え、GRの胸倉をつかんでねめつけてきた。
「馬鹿はお前のほうだ! 結界が解けたあとのことを任せたはずだぞっ。それを放り出すつもりかっ? さっさと離れろ! ふたりして倒れてどうするっ!」
「この程度で俺がくたばるわけねーだろっ。見くびンな! てめぇとは違うんだよっ!」
「私とて倒れる気はない!」
「へーっ。ほーっ。これっくらいのかすり傷で膝ァついてる奴が、そーゆーこと言うわけっ。それに、終わったら力尽きるとか言ってたのはどこのどなただったかねーっ? 倒れないだ? はっ、たいした自信だぜ。そいつがどっから出てくるのか知りてぇもんだ!」
 アッシュローズが眉間のしわを深くする。が、言い返してはこない。唇をねじまげ、渾身の力で睨みつけてくるだけだ。
 GRは口を閉ざした相棒を深く抱きしめた。切りつけてくる風を己が身をもって防ぐ。
「たく……命令すンのはいいけど、俺がやんなきゃなンねぇことは、ちゃんとやらせろ」
「………………」
 嘆息ひとつ、ぼやく。
「お前護れなかったら、傍にいる意味ねーじゃん」
 次の瞬間、
「ぐぇ」
 脇腹に衝撃が走った。
 腕がゆるんだ隙を逃さず、アッシュローズが強引に飛び出した。目の前でくるりと反転し、仁王立ちになる。
「なるほどな」
 低い低い、吐息交じりの甘い声。薄い微笑。
 風刃が白い頬を薙いだ。ばっくりと裂けた傷口から血が滴り落ちる。しかしアッシュローズは微動だにせず、ただ静かに片目をすがめた。
「いったい何事かと思ったが、そういうことか」
 ゆったりと両腕を持ち上げる。左掌で軽く曲げた右の拳を包むなり、指がぱきりと音を立てた。
「GR。覚悟はいいな」
「へ?」
 なぜとも何のかとも訊く間もない。ある意味完全に気を抜いていたGRは、アッシュローズの右ストレートをまともに喰らった。身長に見合った体重のおかげで吹っ飛びこそしなかったが、見かけよりずっと力のある打撃で見事にしりもちをつく。
「なっ、ちょ、いきなり何しやがでぇぇぇっ !?」
 さらに踏みつけられそうになったGRは、台詞を悲鳴にすり替え、四つんばい状態でその場を退避した。
 ばくばく音を立てる心臓を押さえて振り返ると、アッシュローズが全体重を乗せて踏み込んだ足を戻すところだった。
「ちっ」
 本気で残念がる様に血の気が下がる。
「舌打ちなんかしてんじゃねーよっ! つか、なんで殴られたり踏まれたりしなきゃなンねーんだっ?」
「やかましいっ! おとなしく踏まれろ! 衝撃を与えればその馬鹿さ加減も少しは改善されるやもしれん!」
「なんだそりゃーっ!」
 理不尽以前に意味不明な言い分に、GRは床をぶっ叩いて抗議する。
「馬鹿馬鹿言われンのには慣れたけど、いくらなんでもこれはムカつくぞ! なんだよ、何なんだよっ、説明しろコラァッ!」
「ふん、このようなこともわからぬからお前は馬鹿だというのだっ」
 ──つかつかつかつか、げしっ!
 あっという間に距離を詰められ脳天を殴られ、目尻に涙がにじみ出る。
「何すンだよもぉぉぉ」
「うるさい馬鹿! 黙って殴られろ馬鹿! 少しは進歩というものを見せたらどうなのだ馬鹿!」
「もう何言ってっかわけわかんねーしっ。くっそぉ~……こら精霊ーっ!」
 GRは上空を振り仰いだ。こちらを見ている精霊をびしりと指差す。
「元はといやぁ、お前がこんな結界なんざ張るから悪ぃんだぞ! どうしてくれンだ、こんちくしょうっ!」
 アッシュローズにまた殴られた。
「『天上華(テンジョウカ)』 に言葉など通じるわけがなかろう!」
「知るかっ! つか、なんだその 『天上華』 ってのは!」
 さらに一発。
「神学の基礎用語だぞ! 知らんのかっ」
「神学なんざ基礎の基礎しか知らねーよっ!」
「威張るな!」
「あでっ」
 ようやく気が済んだらしい。アッシュローズは腕組みの体勢に戻って見下してきた。
「『天上華』 は神の世界を飾るものという意味だ。自然の精霊、特に上位にある者を指して言う。つまり四大元素である風は 『天上華』 のひとつなのだよ」
 吐息を落とし、
「『天上華』 は言葉を持たない。彼らと会話する手段は 『天上歌』 ……つまりは特別な歌のみだ。それを……」
 こめかみを押さえて首を振り、呆れのジェスチャー。
「そのような普通の方法で意思の疎通が図れるのならば苦労はせん! 少し考えればわかるであろう、馬鹿者っ!」
「また殴る~っ」
 耳を寝かせて尻尾を巻いて、GRは頭を押さえて縮こまった。
「もぉや~め~ろ~よ~ぅ。暴力はんたーいっ!」
「お前がそれを言うかっ!」
 と、そのとき。
 不意にアッシュローズが動きを止めた。GRに拳を落とそうとした体勢のまま固まる。
「……あ、アッシュ?」
 おそるおそる首を傾げてみたら。
 アッシュローズは手を下ろし、上空を振り返った。彼の視線を追って、GRも同じ場所を見てみる。
 そこには、腹を抱えて肩を震わせている精霊がひとり。
「………………。えーと。……もしかして、笑ってる?」
「そのようだ、な」
 気がついてみれば、あれほど狂っていた風がすっかり穏やかになっていた。刃の気配はどこにもない。それどころか結界そのものすら消えている。
 GRとアッシュローズはどちらからともなく互いの顔を見た。微妙に疲れた顔をしている相棒に何も言えないまま、自分も同じ顔をしているのだろうなと根拠もなく痛感してみたりして。
 とりあえず、このまま黙っていても話が進まない。GRは根性で口を開いた。
「どーゆーこと?」
「私が知りたい」
「じゃあ本人に訊けよ」
「……それもそうだな」
 アッシュローズは姿勢を正すと、先ほどよりずっと明るい声で歌い出す。
 すると、笑い転げていた精霊がこちらに顔を向けてきた。GRたちの周りで小さなつむじ風が踊る。弾むように動いて音を立てる様は、見るからに機嫌がよさそうだ。
「…………」
 会話が終わったらしく、アッシュローズが歌を止める。
 そして。
 なぜか肩を落とし、喉の奥でうなりながらGRを横目で見てきた。
「…………」
「……なんだよ?」
 返ったのは特大の嘆息。
「私たちのやりとりがあまりに楽しそうだから、怖い気持ちも哀しい気持ちも消えてしまったらしい。それと……、こんな優しい心をばら撒ける人に悪い者はいないと思ったから結界を解いた……だそうだ」
「なんだそりゃっ?」
「私に訊くな。知らんっ」
 精霊の感覚は読みづらくてかなわん。どこをどう見たらそのように感じるのだ?
 ぶつぶつぼやいてまたため息をつくとアッシュローズは、気を取り直したのか引き締まった表情で鳥籠を見上げた。
「何はともあれ時間をかなり消費した。見つかるのは時間の問題だろう。……急ごう。魔法で鎖を切るから、籠を受け止めてくれたまえ」
「あ、おう。了解」
 うなずくと、アッシュローズはすぐさま魔法の詠唱に入った。彼の周囲だけ一瞬にして空気が変わる。一部の狂いもない、すさまじい集中力だ。
「高貴にして強固なる大地のかけら。すべてを受け止め、すべてを砕きしもの。わが手に宿りて刃と化せ」
 魔力によって構築されたのはダイヤモンドでできたナイフだ。それを握り、構えると、
「慈悲深き大地よ。母なるものよ。今ひととき汝の腕(カイナ)を我に与えたまえ」
 さらに呪文を唱え、投げた。
 重力を忘れて加速していくナイフは、自ら軌道修正して鳥籠を吊るす鎖に命中した。金属の割れる音を響かせ、籠が落下してくる。
 GRは目測で距離を測り、数歩移動して手を伸ばした。難なくキャッチする。
「大丈夫か?」
 籠の上下を正して中を覗き込むと、精霊がにこにこと笑いかけてきた。どうやら怪我もないらしい。
 GRは安堵の息を落とした。彼女に笑顔を返すと、アッシュローズに視線を移して籠を差し出す。
「ほい、早く解放してやれよ。出してやったら、このくそ暑ィ気温もどうにか──」
 ──バンッ!
 部屋の中心を挟んで向かい側の扉が力任せに開けられたのはそのときだった。何事かと思っているうちに廊下から十人弱の男たちが入ってくる。
「貴様ら……っ」
 その中で最も装飾のゴテゴテついた服を着た壮年の男が、こちらを指差してヒステリックな声を上げた。
「何をしているんだ! それは僕の物だぞ、返せっ!」
「………………」
 今、冷気が走った。
 それは激怒が引き寄せる恐怖という名の冷気。
 GRは背筋に汗を流しながらささやく。
「アッシュ? 気持ちは……わかんねぇけどわかるから、落ち着け? な?」
「何を言う。これ以上ないほど落ち着いているではないか」
 振り返って向けられた満面の笑みが怖い。美しいからなおさら怖い。というか目が笑ってない。
 GRは内心で悲鳴を上げながら硬直した。もう、ただただ彼が暴走しないことを祈る。
 アッシュローズは笑顔を落とすと、この屋敷の主人であろう男を横目に睨んだ。
「どうやらお前は、己がなしたことの重大さに気づいていないようだ」
 明らかに嘲笑が混じった声音。侮蔑の感情を察して、男が頬を引きつらせる。が、アッシュローズは塵ほども相手にせず、入り口のない鳥籠に手をかざした。呪文を唱え、粉々に砕く。
「風を……いや、自然を封じるなど、愚か者以外の何者でもない」
 解放された喜びに、風の精霊がドレスを翻して舞い上がる。それと同時に、涼しく心地よい風が流れはじめた。
「あぁくそっ、あれを捕まえるのにいったいいくらかかったと思っているんだ!」
 清浄な空気の中、男のわめき声がひどく無粋に響く。
「だいいち、何も風の精霊を全部かき集めたわけじゃない! 何匹もいるうちのたかが一匹じゃないかっ。なぜ薄汚い泥棒ごときにそこまで言われなければならな──」
「まったく……そんなだから愚か者だというのだ」
 男の文句をさえぎったアッシュローズの言を、GRもうなずいて援護する。
「そうだそうだっ。てめぇの目は節穴か? こいつのどこが汚ぇんだよ。こんな美人つかまえてよー」
「……GRは黙っていなさい」
 やたらと疲れたため息を吐かれてしまった。本当のことを言っただけなのに……。
 言い返したいところだが、あまりしつこく食い下がると鉄拳制裁が待っている。GRは仕方なく口を閉じた。
「さて」
 アッシュローズは呼吸を整えるように一拍置いて、男に向き直った。
「お前は今、たかがひとり……そう言ったな。……なるほど。お前は風の一部分だけを捕らえたつもりでいたというわけだ」
 呆れか、あきらめか──ゆったりと首を横に振る。風のおかげで乱れていた前髪が落ち着き、彼の双眸を覆い隠した。
「なぜ、一部分だけだと思った? なぜ一部分だけならば構わないと思った? ……お前は、自然の何を理解しているというのだ」
 アッシュローズの肩が強張ったのが服越しに見て取れる。拳を握ったのだろう。長い袖の下に隠れていて見えないが。
「無知で愚かな者よ、事実を教えよう。今、世界中の自然が狂っている。風の魔法が効力のほとんどを失い、さらには世界中が高気温という異常現象に見舞われている。それだけではない。さらに多くの問題が発生しているのだ。それらはすべてお前が風の精霊を捕らえたせいなのだぞ」
 屋敷の主人が顔から色をなくした。
「…………まさか」
「信じられんか。だが、これが事実だ」
 アッシュローズの口調は厳しい。彼はこの世界のすべてを愛している。だからこそ穏やかな営みを脅かす存在に対して厳しいのだ。けれど──
「知りたまえ。自然はけっして切り離せるものではないのだよ。分かれているように見えても、すべてひとつのもの、ひとつの存在なのだ。そして無駄なものなどひとつもない。すべて理由があってこの世界に在るのだよ」
 彼は、優しい。きっと誰よりも愛情深い。だからもうアッシュローズの口許には微笑みが浮かんでいるのだろう。
「この世に単独で存在するものなどありはしない。切り離せるものなどない。 『誰か』 だけのものなどありえない。そして……」
 不意に言葉を止めるとアッシュローズは、男にまっすぐ向き直った。
 髪を束ねていた紐を解く。足首まで届く乳白色のストレートヘアーが風に漂いながらさらさらと広がっていった。どこか幻想的な光景。その中でアッシュローズはそっとうつむく。
「そして、覚えておきたまえ。この世界には、たったひとつの存在理由しか持たぬものもまた、存在しない」
 そうして小さく笑うと、すぐに潔く顔を上げた。静かに静かに断罪する。
「悔い改めることだ。そして自然に対し、なんらかの謝罪をしたまえ。そうすれば神もお咎めになられないだろう」
 完全に呆けてしまった男たち。アッシュローズは彼らの様子を満足そうに見渡すと、GRに視線で合図を送ってきた。
 髪の隙間からの、一瞬だけの交錯。しかし何をする気かなど一瞬あれば読み取れる。
 GRはすぐさま風の精霊を手で引き寄せると、空いている手を白い肩に置いた。と同時にアッシュローズが男に向かって軽くお辞儀をする。
「では、失礼する」
「え?」
 短すぎる疑問の声を耳に残し、GRたちは見慣れた光景の中に転移していた。
 家へと続く森の小道。木漏れ日は夏のまぶしさだが、体力も気力も容赦なく奪い取っていくほどの熱気はなかった。出発する前とはまったく違う気温に、息は自然と穏やかになる。GRは精霊を空に放すと、大きく伸びをした。
「ん~っ。暑ぃけど許容範囲だーぁ」
「やれやれ。これでやっとうるさくなくなるな」
「ンだとっ?」
 即座に眉を跳ね上げたら、アッシュローズはからかうように口角を吊り上げて肩をすくめた。逃げる気なのか、すぐさま家の方角に足を向けて歩き出す。薄絹のローブがふわりと揺れた。
 穏やかな後姿を見ながらGRは、ふ、と息を落とす。
 屋敷の主人に向けられたものであるはずなのに、GRの耳には彼の言葉が今もくっきりと残っていた。
 男の過ちを指摘し、真実を教えたあの台詞。しかしGRには、自分に聞かせるためにわざわざ口にしたように思えて仕方がなかった。直前の喧嘩で殴られた理由──アッシュローズが呆れ、怒った理由を、遠まわしにGRに伝えるためだったように思えるのだ。
 これはGRが勝手にそう感じただけだ。本当のところはわからない。アッシュローズに訊いたところで答えをはぐらかされるだけだろう。これまでに出逢った誰よりも素直じゃない男だ、絶対にのらりくらりと逃げるに決まっている。
 真実を確かめるすべはない。けれど、疑う余地のない真実がひとつ。
 それはアッシュローズの口からもたらされた言葉──存在する理由をひとつしかもたないものはないという言葉。
 ならば。もしかしたら。
 彼を命がけで護ること以外に、彼に必要とされる理由があるのだろうか。
 彼の盾となること以外に、傍に在る意味があるのだろうか。
 それが何かまではわからない。けれどあるのだろう。理由が、きっと。
(なんか、すっげ嬉しいかも)
 GRはこみ上げる笑みを素直に出して、アッシュローズのあとを追いかけた。
「なぁアッシュ。俺はともかく、お前、その怪我治さねぇの? 頬の傷、けっこーすごいことになってンぞ」
「たいした傷ではない。これくらいなら舐めておけば治る」
「どうやって舐めンだよ。……俺が舐めてやろうか?」
「ごめんこうむる。冗談じゃない。寝言は寝て言え」
「ひっでぇなー。俺がこんなに心配してやってンのによ。……あ、照れてンのか?」
「馬鹿者」
 こちらを見もせずに即答する相棒の後ろを、笑顔で歩く。
 厳しくて優しくて不器用で綺麗な人。護りたい人。命をかけてもいいと本気で思わせた人。
 少し華奢なその肩に、GRは腕を回して抱きついた。
 ──文句を言われるのは、承知の上だ。

END.
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