見上げれば──
 そこに広がるのは満天の星空。家の明かりが落ちた今、その輝きはさらに増し、落ちてきそうなどという陳腐な言葉では語りつくせないほどの絶景になっている。
「すっげーなぁ」
 素直な気持ちを声にするとGRは、おもむろに足許に目を落とした。月光色をまとう男を見下ろす。半眼で。
「よく見たいって気持ちはわかるけどよ。お前、いったい何やってんだ、おい」
 芝生に長い髪を無造作に広げ、仰向けに寝転んでいるアッシュローズは、夜遅いということを考慮してか、いつもよりさらに小さな声でささやいた。
「見たとおりだが」
 こちらの気持ちを半分も察していない言い草に、GRは口を尖らせる。
「何時間か前にぶっ倒れた奴がいきなりベッド抜け出して、真夜中に庭出て地面の上に寝間着のまんま寝っ転がるなんて馬鹿な真似するたぁ、どういう了見だって訊いてンだよ、ボケ」
 そんなに再起不能になりてぇか?
 脅し半分に拳を鳴らしたら、アッシュローズが顔を背けた。ぷいっ、と。
「私の勝手だろう」
(こ、こいつ……)
 呆れる。本気で呆れる。どうしてこの男はときどき驚くほど子供っぽいのだろう。まるで駄々っ子だ。いや、まさに駄々をこねているのだが。
 こうなってしまったら、アッシュローズは意地でも動こうとしない。頑として譲らない。自分も頑固なほうだとは思っていたが、この状態のアッシュローズには叶わない。まさに手がつけられないというやつである。
 しかし放っておくわけにもいかないだろう。ただでさえ体力が落ちている状態なのに、このままいたら風邪をひくかもしれない。そうなれば本当に長期間寝込んでしまう可能性だって出てくるのだ。
 GRは片膝をついて、アッシュローズの肩に手をかけた。
「ほら起きろよ。部屋ン中からだって見えるだろ? 今晩くらいおとなしくしてろって」
 が、無造作に払われてしまう。
 反射的に出しかけたGRの文句を塞ぐように動く、色のない薄い唇。
「今日だから、見ていたいんだ」
「……あ?」
 アッシュローズが静かに両手の指を絡ませる。祈りの形に。
「ここで、見ていたいんだ。今日は……願いが、空に届く日だから」
「願いが届く日? なんだよ、それ」
 が、今度は何も答えてはくれなかった。アッシュローズは組んだ両手を顔に引き寄せ、唇の上に重ねる。
 かすかに流れた夜風が、白い髪を、服を、ふわりと波打たせた。
 黒に程近い紺色の空気にその様はあまりにはかなく、か細く、今にも溶けて消えてしまいそう。祈りの姿と合わさって、彼はこの世のものではないのでは──そんな心細さに胸が震える。
「……風邪、ひくぞ」
 白髪を指先に絡ませ、撫でたら、アッシュローズがかすかに首を横に振った。
「もう夏だから、冷えはしない。そう長くいるつもりもないから、先に戻っていたまえ。……私は、大丈夫だから」
(そんな言葉を信用できるってンなら、とうの昔に離れてる)
 言い返しかけて、しかしGRは口を閉ざした。
 伝えたところで意味はない。押し問答になるだけだ。
 今大事なのは、別のこと。アッシュローズがここから動かないというのなら、彼の願いをできるかぎり叶えてやる方向で、自分の不安と不満を和らげる方法を見つけて実行するのが最善だ。
 GRはわずかに考えたあとで、改めて白い肩に手を伸ばした。首の下に強引に腕を差し入れ、上体を持ち上げる。
「おいっ──」
「無理やり運んだりしねぇから。ちょい体起こせ」
 体を強張らせたアッシュローズだったが、すぐに警戒心を解いてくれた。組んでいた手を離して、自分から起き上がる。
 不思議そうに見てくる目は無視して、GRはアッシュローズの真後ろに腰を下ろした。一回り小さい体を挟むようにして足を投げ出す。
「夏だってなー、夜ンなりゃ地面はそれなりに冷たくなンだぞ。なのにこんな薄ィ服で転がってたら風邪ひくって。ぜってぇ」
 左腕を後ろについて体を斜めにすると、余った右腕一本でアッシュローズを引き倒した。こらえきれず背中から胸に倒れてきた彼を難なく受け止め、斜め上から顔を覗き込む。
 ぱかり、と口を開けたままのけぞっているアッシュローズ。その間抜け面に笑い混じりの声を落とした。
「椅子代わりになってやる。これなら寒くねぇだろ?」
 静寂はほとんど一瞬だけ。
 アッシュローズがものすごい勢いで息を吸ったかと思いきや、腹筋の力だけでばねのように起き上がった。
「いらんっ。お前のほうこそいきなり何をするんだっ」
「しーずーかーにーしーろーよ~。ふたりが起きちまうだろ」
「う……」
 口ごもった隙に、もう一度ひっぱり寄せた。今度は逃げられないように、右腕を回して掌で左肩を押さえることも忘れない。
 腕力の差に物を言わせて押さえつけてやったら、ようやく観念したらしい。アッシュローズが鼻から息を吹く。
「強引な奴だな、まったく……何を考えているのか理解できん」
「それ、照れながら言う台詞じゃねーぞ」
「…………照れてなどいない」
「あっそ。んで? 星見るんだろ? いつまでそっぽ向いてる気だよ。ンなかっこじゃ、どうがんばったって見れねぇんじゃいたたたたたっ。尻尾握ンなってか握りすぎっ。つーかひっぱンなっ!」
「ふんっ」
 手は離してくれたが、さらに顔を背けてしまった。どうやらからかいすぎたらしい。
 すっかり拗ねてしまったアッシュローズの髪を撫でながら、彼の正面に首を傾ける。
「おぉい、怒るなよー」
 すぐさま反対側を向いてしまった顔を追いかける。
「機嫌直せって」
 またもや顔を振ってしまったアッシュローズの上からため息を落とすとGRは、闇のおかげで完全に幕と化してしまっている彼の前髪をかきあげた。
「ほれ、顔上げろっての」
 星明りにさらされる秀麗な顔立ち。
 アッシュローズは長い睫毛を震わせて驚きをあらわにすると、すぐさま顎を上げて睨みつけてきた。
「離せっ」
 アッシュローズの激怒の気配にひるむことなく、首をかしげるGR。
「俺以外いねぇんだから隠すことねぇじゃん。せっかくこんな綺麗なのによー」
 そうしたら。
 怒りがじわじわと別の感情へと変化していった。目を数度泳がせたあと眉を情けない角度に変えて、またうつむいてしまう。
「私はそんな、綺麗なものなどではないし……」
「いや、かなり美人だって」
「…………。お前、じろじろ見るし」
「だって目の保養になっからさぁ」
「………………。あんまり見られると、……ちつかない、というか、少し…………かしい、と、いうか………………るし……」
「何言ってっか聞こえねーんだけど」
「……………………」
 アッシュローズは一度強く唇を締めると、両手で右腕を掴んできた。
「もうなんでもいいから離せっ。上げていると落ち着かんっ」
「でもどけといたほうが、星よく見えねぇ?」
「いいからっ」
 だいぶ声が大きくなってきた。それだけ動揺しているということなのだろう。
 出会ったばかりのときならばともかく、今もまだ顔を見せるのをためらう理由がわからないが、今日はあきらめるのが無難なようだ。
「へいへい」
 GRはおとなしく髪を離してやった。代わりに右手を後ろに回し、両手で体を支えて空を見上げる。
 少し時間が経ったからだろう。先ほど見上げたときとは星の位置が変わっていた。それでもその美しさ、圧倒的な雄大さは同じだ。心は自然に感嘆で埋め尽くされていく。
 小さくも鮮やかな輝きを見ていると、先ほどアッシュローズが言った 『願いが届く』 という話が信じられそうな気になってくるから不思議だ。
(願いかぁ。言ったら叶うのかな)
 こちらを窺いながらおそるおそるもたれかかってくるアッシュローズの動きは気にしないことにして、GRは空を眺め続けた。
(もしほんとに叶うんだったら……何を願おっかな)
 欲するものはたくさんある。手に入れたいものもなくしたくないものも、両手の指だけでは数えきれないし、両腕では抱えきれないほどある。けれど、そんなにたくさん願っても星は叶えてはくれないだろう。
 叶うのは、ひとりにひとつだけ。大きな欲望ではなくて小さな願望だけ。
 理由はわからないけれど、そんな気がする。
 アッシュローズの体の重みと背中のぬくもりを感じていたら、
 GRはふと、こみ上げてくる笑みの存在に気づいた。確信とともに。
(やっぱ、これ、か)
 素直に頬を緩めて、言葉にせず、胸中に呟く願いごと。
(俺、頭に血ィ上ったら馬鹿なこと簡単にやっちまうからさ。もし約束破りそうになったら、怒ってくれよ。天罰でもなんでもいいから。……こいつ、独りにしたくねぇんだ)
 叶えられるかどうか──そんなものはわからないけれど。言葉にしたそれだけで、気持ちがひきしまった気がする。
 GRは目を閉じて星を視界から消すと、首を起こした。胸にいる男の顔を覗き込む。
 自分とは比較にならないほど多くのものを愛するアッシュローズは、いったい何を願っているのだろう。
「……………………」
 やけに静かすぎる。不意に嫌な予感が走った。
「……アッシュ?」
 右手をそっと外し、アッシュローズの肩に伸ばす。軽く叩いてみる。
 反応なし。
「おい、アッシュ。……おーい?」
 返事のへの字もない。
 ためしに、前髪を掻き分けてみた。
 長い睫毛が頬に影を落としたまま動かない。表情も呼吸もひどく穏やかで──それはどう見ても熟睡の体勢。
「……おいおい。まさかほんとに寝ちまったのか? おいって。おいアッシュ。狸寝入りか? おーい、アッシュぅ。……目ェ開けねぇと顔舐めるぞ? キスするぞ?」
 だがしかし無反応。
 どうやら本気で眠ってしまったらしい。
(マジかい)
 嘆息ひとつ、GRはアッシュローズの体を落としてしまわないように右腕に抱いてから体勢を戻した。少しだけ声の音量を上げて呼びかける。
「風邪ひくぞ、起き──……」
 が。
 睡眠の邪魔をためらわせたのは、ふわ、と花が開くかのようにアッシュローズの唇を染めていく、純粋な微笑みだった。
 何かいい夢を見ているのだろうか。そんなことを考えてしまったら、もうGRの負け。完全敗北。
(……まいった、な)
 中空に目をやって、おとがいを掻いて。なんだか知らないがこそばゆい胸の奥に、少し動揺してみたりして。
 ことあるごとに心を痛めて涙を流すアッシュローズが、こんな無防備な笑顔を見せることなどほとんどない。いや。現実にいるかぎり、彼には常に哀しみと焦りがつきまとう。だからこそ、幸せな夢を見ているのならば、そんな時間くらいは大切に守ってやりたいと思う。
 けれどこんなところにいつまでも寝かせておくわけにはいかない。それこそ本当に風邪をひいてしまう。
 だからといって、自分より小柄とはいえ大の男を起こさずにベッドまで運ぶのはかなり難しい注文で。
 GRは夜空を見上げ、嘆息とともに力なく呟く。
「俺にどうしろってンだよ、おい」
 星は何も言わず、ただひたすら楽しげにまたたいていた。

END.
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