空は青空。太陽の光も心地いい温度。風は冷たくなくぬるくなく。強さも香りもちょうどいい。
 気持ちのいい天気だ。こんな日は自然と元気になるというもの。だが、今日ばかりはさすがのGR(ジール)も気持ちの落ち込みを抑えられなかった。
 いつもならフェリスと一緒に森を探検したり、メイの仕事を手伝い──……訂正。たまに出てくる菓子の試作品を狙ったりして過ごすのだが、ふたりはそろって街へ買い物に出かけてしまった。現在家にいるのはアッシュローズのみ。しかもずっと木陰でひとり本を読むだけときた。
 こんな状況の中で楽しいと思える者がいるならぜひ紹介してもらいたいものである。
(ンだよ。そんなに本読んでるほうがいいってのかよ。くっそ)
 苛立ち紛れに、ばさばさと尻尾を揺らす。
 メイに荷物持ち役を強要されなかったのを幸いと残るほうを選んだのは、別に買い物につきあわされるのが嫌だからとか面倒だからという理由だけではない。アッシュローズと少しでも会話ができるのではないかと思ったからだった。
 実は理由がもうひとつあるのだが、そちらはここにいるかぎり問題ないので不問。
 それはともかく──はっきりいってアッシュローズは親馬鹿だ。しかも心配性。そんな性格だから、フェリスが近くにいるときは絶対に彼から目を離さない。同時に、仕事や用事がないかぎりは少年の傍から離れようとしない。つまりアッシュローズがフェリスから解放されていることなど稀有なのだ。
 その珍しい事態が訪れたこの機会を逃す手はない、と息巻いたはいいけれど当の相手は読書に夢中。こっちを見向きもしない。メイたちが出て行ってからずっと近くをうろついているのに声をかけてくる気配すらもない。だからといってこちらから声をかけたら、十中八九、読書の邪魔をするなと実力行使つきで睨まれるに決まっているのだ。
 こっちはこんなに気にしているのに。
 ひじょうに報われない。
 GRはどこか遠くを見つめて肩を落とした。
「あ~……暇」
「GR」
 そのとき耳に飛び込んできたのは、紛れもなくアッシュローズの声。
 すぐさま顔を向けると、そこには乳白色の髪の向こう、風のおかげでいつもより少しだけあらわとなっている目があった。灰色がかった薔薇色の瞳は、読書の邪魔だと怒っているようにも苛立っているようにも見えない。が、相手をする気になった、という様子でもなく──。
 念のため先手を打つことにした。
「ンだよ。言っとくが使いっぱしりはヤだからな」
 するとアッシュローズは、肩が落ちるほど大きなため息をついて再び本に顔を向けてしまった。
「そんなに暇なら、お前も本を読んだらどうなのだ。仮にも王位継承者であろう。少しは勉学に励もうという気持ちはないのか?」
 鷹揚な物言いで紡がれる現実的で容赦ない言葉に、むか、と胸の奥が波打つ。
「大きなお世話だ」
 言って背中を向けた。
 ため息が止められない。苛立ちも抑えられない。ついつい嫌味が出てしまう。
「あーもー暇。こんなことになるんだったら、俺もメイとフェリスについてくンだったな。荷物持ちしてやるほうがマシだぜ。ったく」
「出かけてから二時間は経った。遠くに出たわけでもないのだから、じきに帰ってくるだろう」
 さらりと流されてしまった。
 苛立っていたはずの感情が瞬時に冷め、重くなる。
「そうかもしンねぇけど……」
 それでは残った意味がなくなってしまうのに。
 どうしてわかってくれないのだろう。
(はっきり言わねぇ俺が悪ぃのか?)
 自問するも、答えは初めからわかりきっている。そのとおりだと。それでも彼に直接一緒に遊ぼうと──ふたりで時間を過ごしたいとあからさまに言うのは、下手に出ているようで嫌だ。絶対に。
 GRは薄く息を吐き、中空を見やる。
(なんかいい方法ねぇかな)
 まずは彼を振り向かせるところから、だろうか。
 GRとアッシュローズは考え方から性格、趣味に至るまでが正反対だ。しかし何かひとつくらいは共通する興味対象があるはず。
 けっして長くはない共同生活を思い返してみる。
(こいつの好きなことっていったら……本と、歌と、庭弄り? 運動はあんま好きじゃねーよな。走り回るよりは部屋にこもって勉強してるよなぁ。…………。……ん?)
 突如湧いたひらめきに感動し、GRは背筋を伸ばした。
「そうだっ」
 国にいるときは難しいし覚えることは多いし教師はうるさいしで、勉強などはっきりいって大嫌いだった。だが、これならば確実にアッシュローズの関心を引くことはできる。それに彼は物知りだし、フェリスに勉強を教えているのを見るかぎり指導力もある。わからないところを彼に聞けば、それをダシに会話もできるし、ことあるごとに馬鹿扱いしてくれる彼の目も少しは改善されるかもしれない。ついでに自分の知識も増える。至れり尽くせりである。
 そうと決まればさっそく実行だ。
(教えてもらうっつったって何教えてもらったらいいかがわかんねぇな。しょうがねぇ、教本取りに帰っか。今から出りゃあ夜になる前には戻って来れるだろうし。……よしっ)
 完璧な計画に満足するとGRは、すぐさま背後を振り返った。そのままを口にするのはさすがにためらわれるため、適当に嘘をつく。
「アッシュ。暇つぶしがてら、城(ウチ)に戻ってくらぁ。晩飯までには帰ってくるからよっ」
 その瞬間。
 突然周囲の空気が止まり、
 凍てつくほどの冷気が走った。
(な、なんだなんだなんだぁっ?)
 ひぃ、と血の気を下げるGR。
 別に気温が下がったわけではない。場の雰囲気が変わったのだ。それは間違いなく、木陰からこちらを見ている人物のせいにほかならず。
(お、俺、なんかまずいこと言ったかっ? 言ったのかっ?)
 疑問に翻弄されているうちに、アッシュローズは仮面のような顔を伏せてしまった。
「勝手にしろ」
 声を漏らした薄い唇が、ほんのり白くなる。
 それは獣人でなければ見逃してしまったかもしれないほどわずかな変化。しかしその変化こそが、GRにすべての理由と原因を教えてくれた。
「どうした。早く行かねば夕食に間に合わんぞ」
 続いた言葉、正確にはその声音を聞いて、GRは己の失敗を後悔する。
 忘れていた。
 アッシュローズは、孤独に弱い。ありていに言ってしまえば極度の淋しがり屋なのだ。容赦なく叩きのめしてくれる態度とは裏腹に、アッシュローズは──独りでは生きてゆけない。愛情のない場所では窒息してしまう。フェリスよりずっと繊細で脆い男なのだ。
 メイとフェリスがいない状態でGRまで出て行ったら、その間の数時間を独りで過ごすことになってしまう。だから残ることを選んだのに。すっかり忘れていた。
 体ごとアッシュローズに向いて息を抜く。
「やっぱやめた」
「……え? ……なぜだ?」
 綺麗な顔を無防備な表情で染めたアッシュローズに、軽く笑いかける。
「秘密」
「なんだそれは」
「だーから、秘密」
 そう。これはGRの秘密だ。弱さに気づいているのだと言ってしまったら、きっとアッシュローズは遠くへ離れてしまう。近づくことを怖がってしまう。プライドを傷つけられるのを恐れて。
 それでは彼を守れない──本当の意味で、守れない。
 だからあえてごまかして、GRは腰を上げた。
「それよりアッシュ。ちっとつきあえよ」
 シャツのボタンを外す。
「……かまわんが、何を──って、おい。お前、いったい何をしているのだっ」
「何って、準備」
 一気に頬まで青くなるやら赤くなるやらのアッシュローズを横目に、衣服を全部脱ぎ捨てる。
「あー、やっぱこっちのほうが楽でいいや」
 素っ裸で笑った途端、いきなりシャツが飛んできた。
「お前には恥じらいとか気品を保つという言葉はないのかっ」
 上体をひねってそれをよけ、
「女がいたら気ィ使ってやるけど、男同士だろうが。ねぇよ、そんなもん」
 かがんだ。脳裏から体に命令を発する。
 変化はほぼ一瞬。
 その一瞬で感じる空気が変わり、視界が変わり、聞こえる音が変わる。獣の感覚で彩られた世界は濃密で鮮やかだ。
 息を吐いて呼吸を整えるとGRは、すぐさまアッシュローズに近づいていった。
「あ、やっぱ木陰だと涼しいな」
 彼の左側に腰を下ろし、首を伸ばす。そして右腕を包む白い袖を犬歯に引っ掛けた。そのまま足を投げ出して横になる。
「あっ」
 こんな行動は予想していなかったのか、思いのほかあっさりと引き倒すことに成功したアッシュローズを、GRは難なく体で受け止めた。
 長い髪の向こうで頬を赤くした男が、慌てて頭を起こす。
「お前はいきなり何を──」
「つきあえ」
 文句を無視して、GRは体勢を整えた。前足をアッシュローズのほうに近づける。
 その一呼吸の時間で落ち着いたのか、男が静かに首をかしげた。白い髪が光の滝のようにきらめき、揺れる。
「何をだ?」
「昼寝」
「昼寝? ひとりですればいいだろう。なぜ私がつきあわねばならんのだ」
「いいじゃねぇか。フェリスの代わりだと思え」
「フェリスはこんなに図体大きくないし、ずっと愛らしいぞ」
「わぁるかったな、可愛げなくて」
 これ以上のやり取りは不毛なものになりそうだ。GRは前足を交差させ、顎を乗せて目を閉じた。
 本当はもっと穏やかで、できたら楽しい会話をしたかったが、今日はあきらめよう。時間ならいくらでもある。ゆっくり近づいて知り合っていけばいい。
 と、そのとき、男の手がGRの毛並みの上で動いた。柔らかくて優しい愛撫。なんともいえない心地よさがくすぐったい。
 耳を震わせてこそばゆさを紛らわせると、アッシュローズに視線だけ向けた。
「お前も寝れば?」
「え?」
 尻尾を動かし、白い体を包み込む。
 毛先に感じるすべらかな髪の感触。むしょうに照れくさいが、気づかれはしないだろう。ごまかしもしないで目を閉じた。
「たまにはいいだろ。こんなのもさ」
 肩口に重みが加わったのはしばらくあとのこと。
 そおっと薄目を開けてみれば。
 近くにあったのは、頬を染めたアッシュローズの純粋な微笑み。そこにはもう、先ほどの孤独への不安は微塵もない。
 緩やかに流れる風に揺れ、形を変える木漏れ日が、真白の上できらきら踊る。
 今までに見たどんなアクセサリーよりも綺麗だと思える輝きに目を細め、GRはまた静かに瞼を下ろした。
 真っ青な空と、優しい風と、暖かな大地と、穏やかな時間。
 なんの言葉もない。声もない。視線すらもないけれど。悪くないと、心から思う。
(世話ァ焼ける奴だな。ったく)
 ゆるむ口端。
 アッシュローズの髪が一筋、頬に触れた。

END.
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