自然が奏でる音色はどこまでも穏やかだ。包み込むように、だがけっして受け止めることを強要しない優しさで心と体に触れてくる。
 朝の澄んだ空気も、夕方の哀愁漂う気配も、夜の静かな色も好きだ。しかし一日の中で、太陽の光をめいっぱい吸い込んだ午後の暖かな時間がいちばん心地いい。そして、そんなお気に入りの時間に庭に出て、お気に入りの木にもたれ、木漏れ日の下で読書を楽しむ。それがアッシュローズの日課であり、大切なひとときでもあった。
 が、しかし。
 ──……ぱさ。……ぱさ。……ぱさ。……ぱさ。……──
 定期的に鳴る音と視界の端で動く物体のおかげで、今日はさっぱり集中できない。
 アッシュローズはページをめくる手を止めて顔を上げた。視線を動かし、邪魔をしてくれる黒いものを見やる。
 長い毛に包まれているふさふさとしたそれは獣の尻尾。けだるげに持ち上がっては、力尽きたように芝生の上に落ちる。草と毛とがこすれあって、ぱさり、と音を立てた。
 要するに、さっきからずっとそれを何度も何度も繰り返しているのだ。
 動きを見ているだけで尻尾の持ち主の心境がありありと伝わってくる。すなわち──
「あ~……暇」
 予想を裏切らないぼやきが聞こえてきたのはそのときだ。アッシュローズは、尾がつながっている体、そしてその上に乗っている頭へと目を移した。
 木陰には入らず、やや強めの日差しの中で座っているのは獣人族のGR(ジール)。己の肉体を最大の武器とする格闘術──徒手空拳の使い手であるためか、アッシュローズよりひとまわりも大きい体をしている。
 彼は芝生の上で胡坐をかいた格好で、こちらに横顔を見せていた。口は半開き。尾と同じ漆黒の髪から覗く犬の耳は垂れ、夕日のような朱金の瞳もまた力なく前方に向けられている。
 すばらしく間抜けな顔だ。
 獣人族の国の王子にはとても見えない。
「……GR」
 アッシュローズは吐息交じりに名を呼んだ。
 と、力なく垂れていた耳がぴこと立ち、綺麗な三角形を描いてこちらを向く。遅れて振り返ったGRの目もまた、気の抜けた色をしてはいなかった。ありていに言ってしまえば、そう、元気な目。
「ンだよ。言っとくが使いっぱしりはヤだからな」
 口調はぶっきらぼう。言っていることも反抗的。だが、左右に揺れている尻尾で彼の機嫌は丸わかり。
 構ってもらえて嬉しい、と体でめいっぱい表現する男の態度に呆れのため息を落としてからアッシュローズは、再び視線を本に戻した。
「そんなに暇なら、お前も本を読んだらどうなのだ。仮にも王位継承者であろう。少しは勉学に励もうという気持ちはないのか?」
 視界の端で尻尾が動きを止め、ぼさ、と落ちた。
「大きなお世話だ」
 体ごとそっぽを向いてしまう。さらに、大きなため息。
「あーもー暇。こんなことになるんだったら、俺もメイとフェリスについてくンだったな。荷物持ちしてやるほうがマシだぜ。ったく」
「出かけてから二時間は経った。遠くに出たわけでもないのだから、じきに帰ってくるだろう」
「……そうかもしンねぇけど……」
 そう言ったきり口を閉ざしてしまった青年は、アッシュローズに向けた背を力なく丸めたのだった。
 家事に勤しむメイにちょっかいを出してはこっぴどく追い返されたり、フェリスと一緒になって庭を走り回るのが常のGRである。ふたりが買い物に出かけているため話し相手がアッシュローズしかおらず、しかも本を読んでいるのでは退屈に思うのも納得だ。が、しかしだからといって自分にメイやフェリスと同じ対応を求められても困る。
 そう、困るのだ。
 けれど。
 元気のないGRを見ているのは、どうにも落ち着かない。それが自分といるせいならばなおさらだ。
 アッシュローズは、ページを繰る手を膝に落とす。
(どうしてやればいいのだろう……)
 GRは心を許してしまった──自分とって必要な存在だと認めてしまった男である。少しずつでもわかりあいたいと願っているのが真実。が、わかりあうと一口に言っても、そのためにどうしたらいいかがわからないのもまた、まぎれもない現実で。
(……どうすればいいのだ)
 アッシュローズは目を落としたまま、途方に暮れてため息をついた。
「そうだっ」
 不意打ちに近い突然の声に驚く。アッシュローズは思わずGRを見やった。
 彼は背中を向けたまま、何を納得しているのか何度も頭を縦に振っていた。そして、
「アッシュ」
 嬉々とした表情で振り返り、言う。
「暇つぶしがてら、城(ウチ)に戻ってくらぁ。晩飯までには帰ってくるからよっ」
「………………」
 今一瞬、思考回路がショートした。
 こめかみの奥で火花が散る。
(こ、っの、馬鹿犬……っ)
 人が悩んでいるというのに、さらりと無視か! そんなにここにいるのは苦痛か!
 アッシュローズはぴきぴきと引きつる頬を渾身の力で押さえつけ、無表情を徹して顔を伏せた。言い放つ。
「勝手にしろ」
 だが。
 許可してやったというのに、GRはいつまで経っても出かけるどころか立ち上がるそぶりすら見せない。
 苛立ちだけが増していく。
「どうした。早く行かねば夕食に間に合わんぞ」
 さっさと出て行け、と八つ当たりぎみの本音を紛れ込ませてみれば、返ってきたのはひどくあっさりとした気の抜ける答え。
「やっぱやめた」
「……え?」
 アッシュローズは寄せていた眉間から力を手放し、顔を上げた。
 気分で行動することが多いGRだが、彼はけっして天邪鬼ではない。どちらかといえば有言実行タイプである。そんな彼が掌を返したように意志を変えるのは──もしかしたら初めてではないだろうか。
 思わず素直な疑問が口から出してしまう。
「なぜだ?」
 いつの間にかこちらに体ごと向いていたGRが、に、と口端を吊り上げる。
「秘密」
「なんだそれは」
 またもや眉を寄せたら、GRが尻尾を振った。
「だーから、秘密。それよりアッシュ。ちっとつきあえよ」
 機嫌よさげな彼の誘いに、少しだけ迷う。
 けれどそれは本当に少しで、答えはすぐに出た。一挙動で立ち上がった彼を見上げてうなずく。
「かまわんが、何を──って、おい。お前、いったい何をしているのだっ」
「何って、準備」
 言っているうちにもGRは、乱雑にシャツを放り投げ、靴を脱ぎ飛ばし、下着ごとズボンを脱いで素っ裸になってしまった。
「あー、やっぱこっちのほうが楽でいいや」
 すがすがしく笑っているが、男の全裸など見せられたこちらはそれどころではない。
 重い鈍痛を訴えるこめかみを揉みほぐすとアッシュローズは、足許に飛んできたシャツを取って投げつける。
「お前には恥じらいとか気品を保つという言葉はないのかっ」
「女がいたら気ィ使ってやるけど、男同士だろうが。ねぇよ、そんなもん」
 不可解そうに片眉を上げてみせてから、GRは身をかがめた。瞬間、ザ、と音を立てて彼の全身から漆黒の毛が生え、骨格が変わる。
 姿を変えるのに有した時間は、瞬き二回ほど。
 現れた漆黒の獣は、人の姿のときとまったく変わらない朱金の瞳と表情と雰囲気のまま、芝生をさくさくと踏みしめて近づいてくる。
「あ、やっぱ木陰だと涼しいな」
 GRはアッシュローズの左側に腰を下ろすと、膝の上に落ちていた彼の右腕に鼻先を近づけ、袖の端を噛んだ。そのまま横にごろりと転がる。
「あっ」
 腕をひっぱられたアッシュローズは、必然的にGRの上に倒れこんでいた。
 驚いただけだ。不意を突かれたせいで抵抗できなかっただけだ。でなければこんなふうにもたれかかったりなどしない。
 形だけを見ればGRに抱きついているような格好。そんな体勢を自分がしていることに、怒りより戸惑いより照れが先行する。
「お前はいきなり何を──」
「つきあえ」
 が、GRが前足を動かして擦り寄ってくるのを見て、動揺は風に溶けて消えた。慌てることは何もない。GRにしてみればごく自然な動作なのだ。──推測でしかなかったが、それでも心は静かになる。
 背中側で大きな尻尾が立てる音を聞きながらアッシュローズは、獣にもたれたまま体勢を変えて彼の顔を覗き込んだ。
「何をだ?」
「昼寝」
「昼寝? ひとりですればいいだろう。なぜ私がつきあわねばならんのだ」
「いいじゃねぇか。フェリスの代わりだと思え」
「フェリスはこんなに図体大きくないし、ずっと愛らしいぞ」
「わぁるかったな、可愛げなくて」
 そう言うとGRは、押し問答はこれで終わりだと言うように、交差させた前足に顎を乗せて目を閉じた。
 アッシュローズを囲むように体を丸めた獣の大きな体は、傍にあるだけでとても温かい。掌に触れる毛並みは見た目よりずっと柔らかく、ふかふかとしていて、極上の絨毯にも似た心地よさだ。
 緩やかな呼吸で上下する背中を、そっと撫でてみる。
 漆黒の毛が波打ち、木漏れ日を吸いこみ、反射して、艶やかに輝いた。
 なぜだかそれがとても綺麗なものに思えて。もっと感じたくて。アッシュローズはゆっくりと、繰り返し獣の体を優しく撫でる。
 と、視界の端でGRの耳が震えた。目が薄く開いて、朱金の瞳がくるりと動く。
「お前も寝れば?」
「え?」
 背に温かなものがかかったのはその直後。首を回して見てみれば、胴体と同じ色の毛が服に絡んでいた。
(なんだ? ……尻尾?)
 ふさふさとしたそれで柔らかく彼の体を包み込むと、GRは再び目を閉じた。
「たまにはいいだろ。こんなのもさ」
「………………」
 ためらうも、アッシュローズはおずおずと毛並みに頬を寄せてみた。
 草木を揺らす風。
 零れ落ちてくる木漏れ日。
 染み込むような体温。
 耳に伝わる獣の鼓動。
(あぁ、暖かいな……)
 暖かい。体だけでなく、心も。
 受け止めることを強要しない、どこまでも穏やかで優しく、大きな愛情が、抱えきれないほどあふれている。
 ──いや。自分こそが、抱かれている。
 泣けてくるほど心地いい。
 ここは、守られている──苦しみも恐怖も悲しみも手放して無防備でいられる場所だ。きっと。ずっと。
 アッシュローズは静かに微笑み、目を閉じる。
 膝から落ちた読みかけの本が、一ページ、風に揺れて音を立てた。

END.
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