ふと気がつくと、相棒の呼吸が寝息に変わっていた。
(紅樹(コウキ)、寝ちゃった?)
 ディドルは床の上で丸めていた体を起こした。軽く爪の音を立てて彼に近づく。
 ベッドの上で雑誌をめくっていたはずの少年は、そのまま本に横顔をうずめていた。寝顔は疲労の色が濃い。
 まだ若干早いけれど、今日はもう寝かせてあげたほうがいいかもしれない。が、すっかり涼しくなってきたこの時期、このまま寝たら風邪をひいてしまう。
 ディドルはベッドの端に前足をかけ、首を伸ばした。
(ねぇ。布団かけなきゃ駄目だよ。風邪ひいちゃうよ)
 頬を鼻先でつつくが、無反応。いよいよ本気で熟睡体勢に入ってしまったようだ。
 起こすのをあきらめるとディドルは、いったん降りて紅樹の足許に移動した。丸まっている上掛け布団の端をくわえ、ひっぱって紅樹の上に広げる。
(うんしょっ……)
 どうにかこうにか布団を掛けることに成功。
 若干乱れているが、ないよりはましだろう。そう自分に言い聞かせて納得し、ディドルはベッドから足を離した。
 と、
 押し寄せてきた睡魔に負けて、あくびをひとつ。
(……僕も眠くなってきちゃったな)
 腐っても犬である。紅樹より体力があるつもりでいたが、さすがにここ数日のスケジュールはこたえたのだろう。
 ひとりで起きていてもつまらない。自分も早く寝てしまったほうが得策かもしれない。
 至った結論にひとつうなずき、ディドルはベッドの脇に作ってもらった寝床に足を向けた。クッションと毛布の間に入り、丸くなる。
 体から力を抜いて眠りに入る──その瞬間、
(────!)
 痛みのない衝撃を受け、とっさに伏せの体勢に移行した。
 そして。
 驚く前に面食らう。
(こ、ここどこっ !?)
 急いで後方も確認するが、目の前に広がる光景と同一のものだ。隠れ家、もしくは棲み家と言っていいアパートとは比べ物にならないほど広く、しかもどこかの国の王様が住んでいそうな豪華さである。
 が、場所などどうでもいい事態に陥っていると気づいたのもすぐだった。
 近くで熟睡しているはずの紅樹がいない。間違いなくいない。いれば匂いでわかる。
(なんで、どうして……っ)
 あんなに一緒にいようと約束したのに。絶対に一緒にいるんだと誓ったのに。抵抗もできないまま引き離されるなんて!
 胸の奥が、きゅう、となる。
 あまりの気持ち悪さに耳を伏せた。
(紅樹、どこにいるんだろう。大丈夫かな……怪我してないかな……)
 嫌な予感。けれど一方で、きっと無事でいると思う自分が確かにいる。少し考えて──ディドルは後者の直感を信じることにした。
 悪い方向にばかり考える紅樹の軌道修正をするのが自分の役目。その自分が不安に捕らわれているわけにはいかない。それに、自分は鎖に縛られているわけではない。怪我をしているわけでもない。動けるのだ。ならばやるべきことは不安に怯えることではない。この世にふたりといない、大切な相棒で、大好きな友達で、かけがえのない兄弟と合流するのだ。絶対に。
 ディドルはすっくと立ち上がった。
 何をするにしても、まずはこの部屋の中身を知ることが最優先。辺りを見渡し、出口のドアに窓、調度品の種類と位置を確認する。
 それにしても本当に豪奢な部屋だ。桁が違うと言われたら即納得できる美術品のような家具ばかりである。ここで暴れて何かひとつでも壊したら怖いことになるんだろうなぁ、などと関係ないことが頭をよぎる。
(気をつけなくちゃね。キレたりしないから大丈夫だと思うけど)
 ふんふん、とひとりで自分に言い聞かせていたら、
「──っぎゃあ!」
 いきなり、悲鳴とともに人間が降ってきた。
 派手に床に激突したかの人物は、打ちつけた腰が痛いのだろう、横に転がってうつぶせになり、右手でさするのと押さえるのとを交互に繰り返す。
「う、くぅぅ、なんだってンだっ」
 声と体格からして男だ。紅樹より年上の。──いや、それはまぁいい。そんなことより。
 何もない空中から現れるなどまるでおとぎ話のようだが、彼は人の姿をしているくせに自分と同じような尻尾、しかもあまつさえ耳まで似たのをくっつけていたのである。それも本物としか思えないような動きをするものを、だ。
 人間ではない。
 へっぴり腰になりながら、ディドルは鼻の頭にしわを寄せた。
 ──ウゥゥ……(な、なんだよきみはっ)
 すると黒い尻尾をつけた人が頭を起こした。
 ディドルを見つけ、きょとんとなる。
「犬?」
 だがそれも少しの間だ。よろよろと起き上がり、その場で胡坐を組む。
「驚かせて悪ぃ。……俺はGR(ジール)。ほんとの名前は違うけど、別にいいだろ。それよりお前、ここに住んでンの?」
 今度首をかしげるのはディドルの番だった。座っていてもなお大きい体の青年──GRを見上げる。
 気のせいかもしれないが、今、会話が普通につながったような感じがした。相手が紅樹なら長年連れ添った相棒なのだから意志の疎通がはかれるのも納得だが、彼は初対面。しかも人間ですらない。そんな相手に犬の声でしかない言葉が通じたのが不思議でならない。
 ディドルの疑念が伝わったようだ。GRが片方の耳だけを器用に伏せる。
「なんて顔してンだよ。俺は獣人だぜ? しかも狼の。犬の言葉くらいわかるさ」
 ──ワゥ?(わかるの?)
「おう」
 返事が返ってきた。本当にわかるらしい。
 ついでに、悪い人でもなさそうである。目が紅樹によく似ている。まっすぐで、嘘のない目──信じられる目をしている人だ。
 GRは信用しても大丈夫。安心していい。経験と直感からそう結論づけ、ディドルは彼の前に腰を下ろした。首を垂らす。
 ──ワゥン(違うよ。僕も気がついたらこんなとこにいたんだ)
 GRの顔が曇る。
「ンだよ、お前もか。じゃあここがどこかなんてことも……」
 ディドルは首を左右に一振り。
 GRが耳を倒した。
「やっぱわかんねぇか」
 黒髪をかき乱し、金に明るい赤を混ぜた不思議な色の目を動かす。
 周囲を探る鋭い視線。不意にその双眸が悲痛に歪み──
「あいつが……」
 しかし悲嘆にくれることなく、怒りと焦りの感情に変わる。
「くそっ、とことん面白くねぇなっ」
(……あいつ?)
 言葉もなくただ首を傾げただけだったが、GRはすばやく反応した。
「あー、なんつぅか……相棒っての? ここに来る前、近くにいたんだけど……」
 つまり、その近くにいた人がいないということか。
 ──ワゥーン(GRも友達とはぐれちゃったんだね)
「え、じゃあお前も?」
 ──ワン(うん)
 今どこにいるかもわからない紅樹。離れたのはほんの数分前なのに、もう何年も会っていないような気分だ。
 なんだか悲しくなってきた。頭を垂れて鼻を鳴らす。
 ──キュゥン……(紅樹、どこにいるのかなぁ)
「…………。淋しいか?」
 ──ウー、ゥワン(僕は平気。でも紅樹はひとりぽっちになったら泣いちゃうから、早く見つけてあげないと……)
 ディドルは顔を上げた。
 ──ワン、ワンワンッ(僕、紅樹のこと護ってあげるって決めたんだ。ずーっと一緒にいてあげるのっ)
 GRの表情が柔らかくなる。微笑みの形に。
「お前、そいつのこと大好きなんだな」
 ──ゥワンッ!(うんっ。すっごく優しいもんっ。大好きっ!)
「そっか」
 GRがぶわっと笑顔を広げて、ディドルの頭を撫でてきた。
「じゃあ早く見つけてやンねぇとな。……よしっ、俺が手伝ってやる! ふたりで捜せばすぐ見つかるさっ」
 大きな手でぐりぐりやられて、ちょっと痛い。けれどそれ以上に、たくさんのあったかさと優しさが伝わってきたから嬉しくなる。元気が出た。
 ディドルは尻尾を振って鼻先を彼の手に押しつける。
 ──クゥゥーン(GRの友達も一緒に探そっ。心配でしょ?)
「心配……」
 いきなりGRの手が止まった。しばしの間のあと、ディドルの頭から離れ、引き戻されて、なぜか頭を抱え込む。
「心配か心配じゃないかっつったら心配だけど、むしろ見つけたあとの俺が心配? まさかってか十中八九、なんで傍を離れたとかなんとか言いながら殴られるんじゃ……でもって蹴られたり踏まれたり? うおぉぉ」
 がたがたぶるぶる。
 先ほどまでのGRと同一人物とは思えない、ひどい怯えようである。見ているこちらまで不安になってきた。
 ──クーン、キュゥン(GRの友達、怖い? いじめる?)
 ディドルの問いかけで我に返ったらしい。GRがようやく手を下ろし、こちらに向き直った。顔色は優れないままだけれど。
「いやっ、少なくともお前をいじめたりしねぇよっ。これは確実! ただ俺が相手だと、ほんっとに容赦なくってなぁ」
 ため息ひとつ、肩を落とす。
「なーんですぐ手ェ上げるかなぁ、あいつは。しかも全力できやがるし。……どこにあんな力があンだか」
 しかし調子悪そうにしていたのはそこまで。GRは顔を上げると腕を組んだ。
「素直じゃねぇっつーか、照れ屋っつーか。淋しいとか不安だったってンなら、口で言うとか抱きつくとかしてくれりゃあ、めいっぱい甘やかして慰めてやンのにさー」
 したり顔でうんうんとうなずくGR。
 が、
「………………」
 いきなり凍りついた。
 音でも出そうなぎこちなさで右腕を動かし、口を覆ってうつむいてしまう。
 ──ワゥッ?(ど、どうしたのっ?)
「あ、いや気にすンな。……はぁ、素直なアッシュなんざアッシュじゃねぇよ。うぅー、想像すンじゃなかったっ」
「とかなんとか言いおって。いざ相方にもたれかかられたら、役得とか思いながら鼻の下を伸ばすのであろう?」
「そりゃあお前……同じ男っつってもあんな美人だぜ? すがられたら悪い気しねぇって。むしろ感無量っつーの? あったりまえ────……?」
 やたらと嬉しげに答え。
 そして一度の硬直のあと、GRが首を真横に倒した。
 それからディドルに目を落としてくる。
「今なんつった?」
(違う違う、僕じゃないよっ)
 ぶんぶんと首を振ったら、
「………………」
 GRがしばし黙考し、
 不意に、双眸に理解の光をともした。それすなわち、ディドルとGR以外の人間がこの部屋に存在するという事実を。
 ディドルたちは視線で合図を送りあい、ゆっくりと、背後に首を回した。
「くふふふふ……やはり犬は愛らしいのう。素直な一途さがたまらぬ」
 室内に響く声。その主は最奥で大きな椅子に腰掛けていた。
 GRが目をこちらに向けないまま小声で訊いてくる。
「あんな子、この部屋にいたか?」
 ──クゥゥ(いなかった、よね)
「だよな」
 ──ゥゥ(うん……)
 かの人は女性だった。否、少女だ。一見して紅樹より幼いとわかるほど小さな少女だった。真っ黒な髪を高いところで結い、銀細工で出来た髪飾りを指している。身にまとっているのは見たこともない形の服。まるで仮装をしているような格好だが、彼女にしっくりと馴染んでいた。
 最初からそこにいたとでもいうかのように悠々と座っている彼女が、大きな黒い瞳をやんわりと細めてディドルたちを促す。
「おぉ、邪魔をしてしまったのう。妾のことは気にせず、ほれ、話を続けよ。思う存分のろけるがよいぞ」
 口許を扇の向こうに隠して笑う少女。ふふふ、とほくそえむ様は、どうにもこうにも実年齢らしくない笑い方で。むしろ何歳の人間だろうとやってほしくない類の笑い方で。
 背筋が寒い。というか心底お近づきになりたくない。
 たいがいの恐怖には打ち勝つ自信のあるディドルだが、この笑みの前には無力だった。そそくさとGRの陰に隠れる。
 ──クゥゥ~ン(なんかあの子、怖いよ~)
「言うなっ。俺だってわけわかんねぇ寒気すンだからっ」
 逃げ腰の台詞。だがGRはすぐに少女に体ごと向き直った。その場で仁王立ちになり、彼女に向かって口を開く。
「おい。ちょっと聞きてぇんだけど」
 ディドルと話していたときとは違う喋り方だ。おおらかさと同時に威厳を内包した口調は、青年には不釣合いとも思える貫禄があった。
「ここはお前の部屋か? あと、俺たちをこんな強引に転移させた奴を知ってたら教えてくれ。はっきりいって迷惑してンだ」
 すると。
 少女が扇の向こうで、すがめてGRを見やり。
「ずいぶんと強気な口をきいてくれる……。おもしろいものじゃな。妾を知らぬからか、それとも主人から引き離された焦りのためか。妾としては、ぜひとも後者を望むがのう。んふふふ……主人のもとへ戻ろうと必死な飼い犬……か。悪くない。悪くないぞえ」
 腹黒い嗤い声を轟かせはじめた。
 これにはディドルだけでなくGRもびびる。ふたりそろって一歩後ろに飛びのいた。
「なっ、なんだよ気持ち悪ぃなっ」
 ──ゥワンワン!(そうだそうだっ)
「お? おぉ、すまぬな。思わず垂涎ものの妄想に溺れてしもうたわ。ふふ」
 高笑いを引っ込めて、少女が鈴を転がすような声を上げる。平然と。
「まずは問いに答えよう。察しのとおり、ここは妾の屋敷にある妾の私室じゃ。泣こうがわめこうが誰も来ぬから安心せい。それとそなたたちを招いた人物じゃが……」
 扇を一振り。
「この妾じゃ。ちと暇だったものでな。時間つぶしにつきあってもらった」
「なっ !?」
「気が済んだらすぐに元の場所に送るゆえ、心配せずともよい。それと、そなたたちの愛しの君はここではない。元の場所におる。じゃから捜す必要はないぞえ」
 にっこり。
 可愛すぎる笑顔にGRが吠える。
「だぁれが 『愛しの君』 だっ! アッシュはそんなんじゃねーっ!」
「さらりと名が出るあたり、図星か?」
「うっせぇっ!」
「ふふ、赤くなりおってからに……。愛い奴め」
「だぁぁぁぁっ!」
 髪が妙な方向に跳ね飛ぶほどおもいきり頭をかき回すと、GRは降ろした両手を拳にした。赤い頬のまま眉を吊る。
「もうなんでもいいからさっさと帰らせろっ! つーか帰る! 止めンなっ!」
「止めるわ、馬鹿者。短気を起こすでない」
 パチン。と音を立てて閉じられた扇。
 少女が優雅に椅子から立ち上がり、流れるような所作で近づいてくる。
「そなたの帰るべき場所は、足ではたどり着けぬ別次元じゃ」
 その視線はすぐにディドルを捉えた。
「ディドル……で、合っておったか? そなたはもう気づいておろう。GRと己が、まったく違う世界の住人であるということに。どうじゃ?」
 人間ではないGR。見たこともない衣装をまとう少女。ふたりの姿とここに一瞬で来てしまったことから、妙なことが起きたのはわかる。その妙なことというのが、少女の言う違う世界へ来てしまったということなのかもしれない。
(微妙に認めたくないんだけどなぁ)
 それでも可能性のひとつとしては有力だ。
 あきらめて納得し、ディドルは首を縦に動かす。
 すると少女が柔らかく微笑んでみせた。
「本当に賢いのう」
 衣擦れの音を立て、ディドルの前で膝をつく。
「ディドル、パートナーが恋しいかえ? 帰りたいかえ?」
 まるで最初から返ってくる答えがわかっているような口ぶりだ。それでもディドルは、はっきりとうなずく。
(当たり前だよ。僕は紅樹のこと大好きだもん。それに……紅樹は、僕の最後の兄弟だ。僕は、せめて僕だけは、ずっと一緒にいる。何があっても最期まで紅樹の味方でいるって決めたんだから)
「そうかそうか。健気じゃのう」
 満足そうに笑い声を立てると少女は、今度はGRを見上げた。まっすぐに、だが少々意地の悪い笑みで口許を染める。
「そなたはどうじゃ、GR。恋しいかえ? 帰りたいかえ?」
「………………」
 不機嫌極まりない表情(カオ)をしたGRが、ふと、怒りと苛立ちを抑えた。代わりに宿した感情は──彼の性格をすべて知ったわけではないからただの勘だけれど──偽りのない素の心。
「恋しいだ? 馬鹿にすンな。俺はあいつがいなきゃ生きてけねぇなんて思うほど弱くねーよ。帰りてぇのは義務も責任も約束もほっぽりだすのが嫌だからだ」
「甘い心ゆえではないと?」
「おう」
 強い、毅い、意志と言葉。
 腹の底から吐き出して腕を組む。
「俺たちが一緒にいンのは、同じ未来を見て、同じ理想を目指してっからだ。馴れ合いなんざ、こっちから願い下げだ」
「ほう?」
 少女が、にやり、とほくそえむ。
「パートナーが急に消えたそなたを必死になって捜しまわっていると聞いても、そう言えるかえ?」
「……ええぇっ? マジでっ? うわ、泣いてねぇっ? フェリスに輪ァかけて淋しがり屋だからな、あいつ……。って、なんでンなことがわかンだよお前っ!」
「ほほほほほっ」
 目の前で繰り広げられる、取り乱したGRと、してやったりと言わんばかりの少女のやり取りに、ディドルはちょっぴり泣きたくなった。
 ──ウゥ~(GRぅ。さっきのあのかっこよさはどこいったんだよ~?)
「うっせーっ!」
「おーっほっほっほっほっほっ」
 少女は本当に上機嫌だ。心底楽しそうだ。はた迷惑だけれど。
 そんなことを思うディドルの視線に気づいたのか否か。少女が軽い目配せのあとで落ち着いた微笑みを浮かべた。
「ではそろそろお開きとしようかの。あまり引き止めてはかわいそうじゃし、むしろ……ふふふ」
「何考えてンだてめー」
 口の端に上らせた笑みに、GRが胡乱げな眼差しを送る。が、無視。少女は立ち上がって、しゅす、と一歩後ろに後退した。
「ふたりとも息災でな。もう逢うことはないであろうが、もしも次があったときはまたたっぷりと話を聞かせておくれ」
「お断りだっ。二度とすンなっ!」
「んふふ。そうつれないことを言うな」
 少女が美しい笑顔で扇を開く。
「では、さらばじゃ」
 瞬間、
 記憶にある衝撃が体を、脳を刺激した。
 ディドルはとっさに目をつぶり、そしておそるおそる目蓋を上げて。
(あ……)
 そこが見慣れた一室であることを知る。
 体に染みついている匂い、気配、空気。そして傍のベッドにあるふくらみは──。
 ディドルは急いで寝床を飛び出した。ベッドに駆け寄る。枕元を覗けば、そこには別世界に行く前と寸分変わりなく眠る相棒の──紅樹の寝顔が。
 名が示すとおりの深紅の髪が、若干色の悪い頬を撫でるように散らばっている。ディドルがいなくなっていたことに気づいた様子はない。ずっと眠ったままだったのだろう。
 心配をかけずにすんだようだ。安心し、ディドルは体から力を抜いた。相棒の寝顔を見つめたままその場に腰を降ろす。
 先ほどの経験は実のところいったいなんだったのか──現実か夢か、そしてもし現実ならあの少女は何者だったのか。真実が気にならないと言ったら嘘だけれど、どちらでもいいな、とも思う。だって、今は間違いなく紅樹の傍にいるのだから。
 ここは敵の多い世界。けっして安全ではない世界。けれどこうして紅樹の傍にいるだけで不安を感じない。何も怖いと思わない。先ほどまであった、意志の力で抑えつけねばならないネガティブ思考はすべて消えていた。
(……やっぱり僕、紅樹の傍にいるのがいちばん好きだな。……うん)
 何があっても彼の傍にいてあげるのだと胸に決めていた。そして紅樹もそれを望んでくれている。が、同時に自分の願いでもあったのかもしれない。
 お互いが同じ気持ちでいる。──それはきっと、とても幸せなこと。
 初めて気づけた喜びに、尻尾を揺らす。
 ディドルは上掛け布団の下に鼻先を突っ込んで、顔を中に入れた。上掛けを跳ね飛ばしてしまわないよう慎重に、ベッドにもぐりこむ。
「……ん、ディドル……?」
 さすがに起きたか、紅樹が身じろぎした。
 構わず、ディドルは体の向きを変えながら枕元に頭を出した。寝ぼけ眼の少年にぴたりと寄り添う。
「どうしたんだよ。珍しいなぁ」
 自分と同じ金色の瞳が、小さな照明の下で笑みの形をとって光った。
 周りのほとんどが敵であり、その大半に鬼のようだと恐れられているとは到底思えない柔らかな笑顔。大切で大好きな紅樹の笑顔。そんな頬を、ディドルはいっぱいの気持ちを込めて舐めた。
「ちょ、くすぐったいって……」
 ふにゃふにゃと笑い声を上げ、紅樹がディドルに抱きつく。
「ん……あったかぁ──……」
 そのまま、また眠ってしまった。
 穏やかな寝息を横に、ディドルもまたシーツに顎を落として目を閉じる。
 ゆるりと訪れるまどろみの中、ふと心によぎったものがひとつ。それは、短時間とはいえ一緒にすごし、好意をいだいたひとりの青年のこと。
 彼も帰りたい場所に帰れただろうか。自分と同じように、相棒の横に戻って安心しただろうか。
(GRも大好きな人の傍で、幸せな気持ちでいたらいいなぁ)
 そんなことを思いながらディドルは心地よい眠りの中へと入っていった。


「今回ばっかは不可抗力だ~っ! 俺に責任はないっ! だから殴ンなっ! っつーか頼むから落ち着けアッシュっ!」
「やかましいっ。一発二発ですむと思うな、馬鹿犬がっ! まったく……、どこを視ても姿どころか魂すらもこの世界から消えていると気づいたときは、本当に……っ」
「……あれ……もしかして本気で心配してくれたとか?」
「…………何か言ったか? GR」
「ええっといやあのほら……とりあえず赤い顔で睨んでも怖くねぇ──ってわーっ、その上げた足はむちゃくちゃ怖いですっ。だから降ろしてくださいお願いしますっ」
「フッ……問答無用だ! そこに座れっ!」
「ぎゃーっ、目がマジだーっ!」
「あっ、こら逃げるなっ。おとなしく殴られろ! 蹴られろっ! 踏まれろっ !!」
「嫌に決まってンだろ馬鹿ぁぁぁぁぁっ !!」

 その日、ディドルの夢に現れたGRと見知らぬ白髪の青年は、願いが形を取ったのか、それとも──。
 真実はたぶん、神のみぞ知る。

END.
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